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" Scent of a Woman" (1992)

He may be Jack to you, son.

But when you’ve known him as long as I have…

 

 

I want wall to wall with John Daniels.

......Don't you mean Jack Daniels?

He may be Jact to you, son. But when you've known him as long as I have. 

 

1850年、テネシー州リンチバーグでジャスパー・ニュートン・"ジャック"・ダニエル(1850年 – 1911年)は貧困な家庭で生まれ、家族の友人に預けられ7歳からルター教会の牧師であり蒸溜所のオーナーであったダン・コール家に雇われる事となる。それをきっかけにジャック・ダニエルはダン・コールからテネシー・ウイスキー独自の製造法である原酒を樽詰めする前にサトウカエデの炭でろ過する「リンカーン郡製法」と呼ばれるチャコール・メローイング製法でのウィスキーの造り方を教わる。 1863年9月には牧師としての仕事に専念するためにダン・コールは、13歳であったジャック・ダニエルに蒸溜所を譲り、そこからジャック・ダニエルとしての本格的なウィスキー造りが開始される。1866年には自身で作ったウイスキーを自分の名前を刻んだ陶器のジャグに詰め込み販売を始め、同年に政府が酒類にも課税すると見込み蒸溜所を政府に登録し、アメリカにおいては初の政府公認の蒸溜所となる。

その後、1904年、ミズーリ州のセントルイスで開催されたセントルイス万国博覧会でオールドNo.7(後のブラックラベル)を出品し、世界各国のウィスキーの中で唯一金賞を獲得し、知名度も上がりそこから世界的に認められるようになる。

しかし、1919年にアメリカ政府によって禁酒法を施行され、50年以上続いた蒸溜所は事実上閉鎖へと追い込まれる事となる。禁酒法撤廃後にはジャック・ダニエルの甥であったレム・モトローによって再建されるが、彼の死後、蒸留所を継ぐものはおらず彼の家族によってアーリータイムズなども擁する酒類販売・製造企業のブラウン・フォーマン株式会社に買収され、現在に至る。

ジャックダニエル社の本社があるムーア郡は禁酒郡(ドライ・カウンティ、dry county)のひとつで、禁酒法施行以来郡内での酒類の販売が禁止されている(ただし、ジャックダニエルの蒸溜所では観光客向けの少量販売が認められている)。

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